整然と営む冷凍都市の暮らし

そういってNumber Girlはギターソロに入るけれど、私にとってのギターソロ、つまりボーカルであり当事者である私の計画された安息が訪れることはない。

冷凍都市がそのまま東京を意味するのであれば、その冷凍都市に暮らしてもう8年になるが、私にとっての本当の意味での安息が訪れたことはあっただろうか。

22歳。私が確かに22歳であった頃に住んでいた街は高円寺であった。地方都市とも言えない地方の中でも地方に位置する陸の孤島で多感な時期(18歳から22歳)までを過ごした少年とも青年ともつかない私には似合いの街だったように思う。

手前味噌な話で恐縮だが、その地方中の地方において私はスターだったように思う。関西の端っこ、関西と言うことも憚れるようなどうしようもない街で私は確かにロックスターであったし、私はそれを誇りに思い、有利な関西地域の金融機関への捨て、東京の広告系ベンチャー企業への就職を決意したんだった。これは今思い出したことだけれど。

当時の話し相手といえば「社会」に対する認識の曖昧な後輩ばかりで、私は傲慢だったのだと思う。「こいつらが凄いと思えるような私であり続ける必要がある」という意味の分からないボーダーラインを設定していたこともさっき思い出した。結局、彼らが考えていたことは「この面倒臭い先輩をなんとかやりすごそう」という意見だったのかもしれないという考えに至ることが出来るまでに5年ほどの時間を要した。

5年、ちょうど私が27歳の頃をお話しする前に、22歳当時のことをお話ししたいと思うのだけれど、22歳の頃の記憶がトンと無い。22歳、私は何をしていたのかと考えることが今までになかったのかと言われると、きっとそんなことは無いのだろうと思うのだけれど、22歳当時の自分がおそらく、おそらくではあるけれども人生の中で一番ダサかったんだろうと思う。

22歳の私は、何でもなく、また何に憧れるでもなく、これといった友達もおらず、学生時代にそんなには飲まなかった酒を少しずつ覚えた、杉並区の端くれだったように思う。

22歳の頃、2月の末に東京高円寺に引っ越してからは、安息の地を探していたんだと思う。私にとっての安息の地の多くはラーメン屋であった。通い始めてすぎに地上げ屋に火をつけられたという噂のたったラーメン屋や、かつてライブハウスでブッキングを担当していたという店主のいるラーメン屋に通ったりしていたことも今思い出した。知り合った女を美味い店に連れて行くという習慣もなく、そのブッキング担当がやっているラーメン屋に連れて行ったことがあるような気もする。

その後、23歳になってからはそこそこに交友関係を築くことにも成功するのだけれど、22歳、東京で1人だった頃のことは未だに思い出す。22歳、給料も少なく、占有面積20㎡以内のロフト付き、クソみたいなワンルームに住んでいたことを、今も思い出すことがあるけれど、楽しいことばかりだったな。またあのクソみたいなワンルームに住んでみたいと思うこともあるけれど、あの頃のようには行かないんだろうな。

随分と冷凍都市の暮らしには慣れたつもりではあるけれど、結局、俺はあの街から逃げたんだと思う。